妹尾 武治 著
心理学的決定論の正しさの証明のためにいろいろな方面から論じていて非常に興味をそそられた。著者自身も記しているように、自由意思などなくすべて決まっていることが起こっているだけという「とんでもない本」になっている。個人的には阿頼耶識と量子力学を今後も理解を深めようと思っています。
未来が決定していてもやりたいことはやっていく。やりたいことが実現しなくても、そう決まっていたのかで次にいける。コーチング的にはそういう使い方ができるのではないかと考えました。
はじめに
この世はすべて事前に確定しており、自分の意志は幻影→心理学的決定論
第1章 自由意思と決定論と
意思を意思する→能動意志の無限後退→主体性がみつからない
リベットの実験:脳が無意識に動き出す→動かそうという意思が形成→実際に動く
身体と環境との相互作用→意志以前に人間を無意識的に動かしているなにか
ラプラスの悪魔→情報さえ揃えば未来は確定する→自由意思があると思うのは情報不足ゆえの錯覚
決定論=全ての行為が事前に決まっている
意識<勘<行動<身体→意志や意識には脳が関係していると考えるのを止める→人間だけが自分の行動を意志や意識で制御していると考えるのは間違い
第2章 暴走する脳は自分の意志では止められない
意志は幻影→行動をコントロールできる力はない→自動的に身体が反応
脳には強い個性がある
神→環境と身体の相互作用によって生じる脳内活動という不可避で圧倒的な人間を操作する力
第3章 AI
AIのブラックボックス問題=AIの選択を人間にわかるように説明することができない
脳神経1つは理解されているが1000億個のオーダーで集まったときに生じる心についてはどうしてそれが生まれるのか何もわかっていない→集積するとブラックボックスが生まれてしまう
ハードプロブレム=私とは何か? モノから心が生まれるのはなぜか? 意識とは何か?
クオリア=自分自身にしかアクセスできない感覚の質感(私にとっての赤は他人の赤と同じだろうか?)→違っていても氣づくことはない→命題に変換できない(数式や言語に置き換えられない)
膨大すぎる情報のやりとりを全て理解することは不可能→行動に自由意思という誤解が生じる
第4章 そもそも人間の知っている世界とは?-知覚について
知覚心理学=人間の五感について人間の特性を精緻に記述していく学問
知覚世界と物理世界は異なる→知覚者の状態でコロコロ変わる
サブリミナル(閾値以下)=物理世界にある刺激の強度が弱すぎて人間にとって意識的な処理ができないが、それにもかかわらず人間の行動に変化をもたらすような刺激
プライミング=ある行動に先んじて触れていた別の刺激がそのある行動に影響を及ぼす
知覚は生物によって異なるし、さらに個体ごとにも異なる
脳18カ月 心4歳以降 私が生まれ私の心と同じものがあなたにもある→心の理論→私と似た神がいるという発想へ
第5章 何が現実か? 唯識、夢、VR、二次元
唯識:世界とは結局のところ自分自身の脳が作ったもの→世界とは自分であり、自分こそが神であり全て
唯識無境=外界にあるものなど存在せず何もない
唯識所変=この世とは全て、唯、阿頼耶識から作られたもの
思う=ある
八識=表層心(五感+意識)+深層心(末那識<自我執着心>+阿頼耶識)
第6章 量子論
世界は見る人がいて初めて固まる→コペンハーゲン解釈=粒子は様々な状態が重なり合った状態で存在しうる
第7章 意識の科学の歴史
第8章 意識の正体
意識とは情報(を解釈するためのアルゴリズム)
情報にはレベルがあり、人間の持つ意識情報のレベルは高いが自然法則に基づいたもの
脳科学の限界を超克する方法→芸術と哲学
第9章 ベルクソン哲学にヒントが!
脳=心ではない
持続が意識の本質であり、意識の自然法則
第10章 ベクションと心理学的決定論
ベクション=環境と私の関係がそもそも曖昧で、関係性は一意に定まらない
自分が動いていると思い込んでいても、それはベクションという錯覚で実際には自分は動いていないということは十分にあり得る
第11章 マルクス・ガブリエルの新実在論
存在する=なんらかの意味の場に現れる=実在
第12章 アートによる試み(妹尾の場合)
アートの本質は人間の思考や思想であり、表面的な物質は媒体にすぎない→発想の転換
世界の主体は意識であり、モノは客体
第13章 Cutting Edgeな時代に生きる
意識とは情報であり、生命とはその情報を増やすために配置された「なにがしか」(存在)である
まとめ・エピローグ 扱える情報量の多さに応じて、自由意思の錯覚を強く与えられている